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2008年4月28日 (月)

祖母の想い出②

祖母の想い出①続き 
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☆★☆★☆★☆★☆★(祖母の語りから) 

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祖母の実家は、富山で手広く魚屋を営んでいました。
相当景気が良くて、小豆の株を沢山持っていたようです。そして、小豆が不作だった時に、小豆相場が高騰して、実家は大いに富を蓄えたのでした。

幼い頃に住んでいた家は、沢山の使用人がいて、とても立派だったそうです。一番記憶に残っているのは、幼かったせいか?トイレのこと。4畳半ほどの畳敷きの部屋で、真ん中に便器があり、漆塗りの立派な蓋がついていたそうです。先日テレビの美術番組で、どこかの国宝級の建物を映していましたが・・・その建物には、祖母が話していたと同じようなトイレがあって、その映像が出ていました。

男女4人ずつの8人兄弟姉妹のなかで、祖母は上から7番目。長女は、実家が裕福な時代にお嫁に行ったので、たいそう豪華な結婚式をして、その結婚の長い行列が一町も続いたとか、話に聞いているそうです。このお姉さんは、結婚後数年して病気で亡くなっているようです。


祖母は幼かったので当時の富山での記憶は、あまり残っていないとのことです。
「5歳までしか住んでいなかったからね」
「すぐ向かいに呉服屋さんがあって、当時3歳だった弟きさ(喜作)ちゃんが、裸足でよく遊びに行っていたことは、憶えているわ・・・」
日露戦争のあった時代だったそうです。

この祖母の弟喜作さん(私にとっては大叔父)のことは、私の記憶の中では、祖母と一緒にお見舞いに行った東京の千歳烏山の某病院で、胃癌の末期症状の痛みに苦しむ姿として、強く残っています。また、その弟の葬儀に出席する祖母を、私は羽田空港に迎えに行きました。

晩年祖母は、東京暮らしの仲良しの駒住兄さん、かしく姉さん(床屋をしていたお姉さんも、晩年は東京の長男と同居していた)と会うと、幸せそうな表情でいろいろな懐かしい話をしていました。なぜかいつもお部屋の隅のほうに、三人膝を寄せ合って・・・。

お兄さんがいつも優しい目をして、二人の妹が話すのをニコニコしながら聞いていらした姿が、今も忘れられません。

富山時代の話も、その時にお兄さんから聞いて思い出したり、またあらためて知った内容もあるようです。
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さて話を富山に戻しましょう。

ある年、小豆が大豊作となって、小豆相場が急激に下落してしまったそうです。それで、それまで住んでいた立派な家が、すべて抵当にとられてしまったのでした。
しかも、土蔵の俵に入れてしまってあったはずの沢山のお金も、道楽者(音楽隊などで遊んだりして)の長男の兄さんが、勝手にかなり持ち出してしまっていたのでした。


一瞬のうちに没落した一家は、夜逃げ同然にして、当時東京に住んでいた知人?を頼って富山から逃げ出したのでした。その時、祖母は5歳、末っ子の弟は3歳だったそうです。とりあえず、東京に一泊した家族は、東京組と北海道組とに別れることになりました。 

「北海道へ行けば、お金儲けができるそうだ!みんなで行こう!」 

一家の大黒柱のお父さんの言葉に励まされて、一家の大部分が見知らぬ寒い土地、北海道へ渡ることになったのです。そこには、大谷さんと言う知り合いがいました。長男の兄さんとお父さん二人が、まず最初に北海道へ渡り、家族で住むための家などを確保してから・・・残りの家族が、旅立つことになりました。

たぶん、最小限の荷物を抱えて、何日も何日も汽車と青函連絡船の旅を続けたことでしょう。そして、5歳の幼い少女は、何を思っていたことでしょう! 


次兄駒住と、次姉が東京にそのまま残り・・・それぞれ、お酒屋の丁稚奉公と、お屋敷勤めをすることになりました。


駒住兄さんは夜学中学(今の高校にあたる)に通いながら真面目によく働いたので、やがて店主から「のれん分け」をして貰って、お店を構えました。そして、まもなく、北海道に渡っていた一番末の弟を東京に呼んで、自分の阿佐ヶ谷のお店を手伝って貰うことにしたのです。

お店は順調にいき、やがて弟にも吉祥寺に酒屋の支店を持たせお嫁さんを貰うまでになりました。

一方、次姉は、お屋敷勤めのおかげで行儀見習いもでき、さらにお屋敷勤めで習い憶えたお裁縫の腕もめきめきと上達して、やがては自宅でお裁縫の仕事をするまでになっていました。そして、結婚して女の子と男の子を授かりました。男の子は震災で亡くなった時、3歳の可愛い盛りでした。震災の少し前その姉が体を壊してしまい、母親がその看病のためにたまたま上京していて、震災にあったのでした。なんという運の悪さ!

姉のもう一人の女の子は震災のあった時、踊りのお稽古に行っていたそうですが、その消息は全くわからなかったそうです。おそらく、震災で亡くなったのだろうということでした。Picture80blog

さて・・・北海道組は、北海道の旭川に落ち着きました。両親、二人の兄、姉、そして弟との計7人でした。

祖母の記憶によれば、住んだ場所は3条6丁目だそうです。祖母はそこから小学校へ入学して通いました。かしく姉さんは小学校を終えると、床屋さんに見習いに行くことになりました。そこで頑張って床屋の資格を取って、とうとう自分の床屋を開くまでになったのでした。やがて消防の番屋に勤めていた若者と結婚して、二男二女に恵まれました。

このかしく姉さんの夫は、やがて消防の仕事を辞めて、当時札幌で手広く商売をしていた弟の靴屋を、手伝うことにしたのでした。しかし、その幸せもつかの間、脳卒中に倒れてしまい、その後かしく姉さんの15年近くの?長い介護の日々が、続いたのでした。その後東京で長男と同居。このお姉さんは、晩年いろいろ苦労を重ね、90歳で亡くなっています。

さて話は戻って、祖母は、小学校を無事に卒業して家にいました。 

「勉強は、お習字と国語が得意だったわ。算数と理科と体育は苦手。成績は国語が甲で、お習字と作文は甲の上。あとは乙がたくさん。作文が得意だったの。でも丙(不可)はなかった。ふふふ・・・」

そんな祖母は、90歳になっても手紙を良く書いていました。私も長文の手紙を沢山貰いました。今、私の宝物として、引き出しにしまってあります。

祖母は、なかなかの名文を書きます。 

さて、祖母の父親はなかなか感性の豊かな人でしたが、胃弱な人で、しばしば胃痙攣様発作を起こしては、近所のお医者さんの往診を受けていました。竹村病院と、黒川病院(こちらは産婦人科の病院だったそうですが、当時の医者は、看板に関係なくいろいろな病人を診ていたそうです)に往診に来て貰っては、注射して貰っていたとのことです。

「たぶん、モルヒネだったのでは?」と、祖母。

その父親は、子供のしつけに厳しい人でした。 

冬の寒さの中で、父1人が囲炉裏に置いた薪ストーブを占領して、背中をあぶっていて・・・子供たちは、隣の狭い部屋で炭火の炬燵で暖をとっていたそうです。
「でも・・・炬燵から出ると寒くて、なかなか炬燵から出られなくてね。学校の勉強も、炬燵に入ってしたものだったわ」
北海道の凍てつく寒さの中で、炬燵一つの暖房・・・今の私達からは、想像を絶する話でしょう。しかも当時の家は、すきま風の多い襖と障子ばかりの家です。現代のアルミサッシなんて、まるで無縁の世界でした。

この父親は、かなりの読書家で歌をたしなむ人だったそうです。 

最愛の妻が震災で亡くなった時、その悲しみを歌に書いたそうです。その歌が、今も仏壇の中にしまってあるということなので、ぜひ、読んでみたいと思っています。
もしも、人生のボタンの賭けあわせが少し違っていたら・・・この父親は、お金持ちの旦那様として、のんびりと読書三昧の日々を送り、そして祖母もお嬢様として日本舞踊やお琴などのお稽古事をして優雅に生活して・・・今とはまるで違う人生を歩んでいたことかもしれません。
でも・・・もしそうだったなら、私はこの世に存在していなかったのですね!


さて・・・ある日、父親の往診に来て下さった黒川医院の医者が、父親にこう言ったそうです。

「お宅になかなかよい娘さんがいますね。私の病院に看護婦見習いとして、寄こしてみませんか?」
「家の娘で間に合うのなら、お願いします!」

こういうわけで祖母は、黒川病院の看護婦見習いとして16歳まで(その後東京に行ったので)勤めることになったのでした。それは、どうやら病院に泊まり込みのきつい仕事だったようです。

母親はとても優しい人で「洗濯物はないのか?オレ(当時富山では、女性も自分のことを私ではなくてオレと言っていたそうです)が洗ってあげるから、出しなさい!」と、病院へやってきては、いつも祖母の衣類などを洗ってくれたそうです。

お正月を過ぎた頃、わざわざお餅を焼いて黄な粉たっぷりの安倍川餅を作っては、お昼休みを見計らって、病院にそっと届けてくれたりしたそうです。
「でもね、仕事中に食べるわけには行かないし・・・結局、夕方仕事を終えてから、同僚の女性にも分けてあげて二人で食べたの。ただ、その時刻には、焼きたての柔らかいはずのお餅も固くなっていてね!でも・・・お母さんの気持ちが嬉しかった・・・当時、お母さんのことは、おっかさんと呼んでいたわ」

そんな折り、東京の駒住兄さん(当時25歳)が、2度目の徴兵のために一時北海道にやってきたのでした。旭川の第7師団に入隊したのでした。

その任を終えて帰京する時に「姉さんが寂しがっているから、美代も東京に来ないか?」と声をかけてくれたので、大喜びで一緒に上京することにしたそうです。

「そりゃあね、若い娘にとっては、東京は憧れの街だったもの!」

当時を思い出して・・・とても幸せそうな、夢見るような笑顔を見せてくれた90歳の祖母でした。

東京
には、三年間だけ住んだそうです。その時に、関東大震災を経験したのです。震災の壮絶な哀しみの体験が、祖母の優しさの源なのではないでしょうか?そのことを、ちょっと想像しただけで、私の胸は詰まり・・・涙があふれそうになってしまいます。

東京にいた時「美代は北海道で看護婦をしていたのだから、こちらでも病院勤めをしたらどうか?」と駒住兄さんに勧められて、牛込のマキ病院で看護婦(最初は見習いで、やがて正看護婦になった)をすることになりました。そして夜は、助産婦学校に通ったそうです。
でも結局・・・関東大震災後に、祖母は哀しみのうちに北海道に戻ったのでした。お母さんとお姉さんとの暖かな日々の思い出だけを胸に・・・。


若い日道楽者だった長兄は、北海道で花火工場を始めたそうですが、その花火工場が爆発して破産してしまったそうです。そしてそれによって、北海道へ密かに持っていった家族の財産のほとんどをなくしてしまったそうです。この長兄は、晩年事故の後遺症によって亡くなり・・・幼かった私は、祖母と二人でそのお葬式へと出かけたのでした。暗い、哀しい記憶が私の心の片隅に残っています。

さて、祖母の話の中で、三男のお兄さんの話が出たことがありませんでした。

祖母の中で、口にしたくない悲しい思い出と結びついていたのでしょうか?先日私の母(祖母の長女だから、いろいろ知っているだろうと思い)に聞いてみました。

「その叔父さんは、胸を悪くしていて普通の仕事ができなかったので、一人で商売をしていたの。アイスキャンディを作って売ったりしていて、こつこつお金を貯めて、とうとう自分の家を建てたの。結婚はせずにずっと独身。長兄家族が生活に困ったので(例の花火工場爆発による?)一緒に住まわせてあげたの。でも、自分は4畳半一間に住んで、長兄家族に残り全部貸してあげて、結局若くして亡くなったの。お祖母ちゃんの男の兄弟は、みんな心優しかったから・・・」

「胸の病気が移るといけないからって、私たち子供はその叔父さんと離れて暮らしていたので、叔父さんとはあまり話をしていないの」と母。

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さて旭川で、祖母の自宅を仕事で訪れた若き日の祖父が、若き日の祖母の可憐さに一目惚れ。その後二人は幸せな結婚をして、やがて二男四女を授かるのでした。

ただ・・・最初の長男の進は、小さな時に病死しています。祖母と祖父は、大事な男の子をなくして悲しみに暮れたようです。でも、その後しばらくしてやっと男の子を一人授かっています。

そして、私の記憶のかすかに、火事で焼け出された祖母一家の姿が残っています。あれは、私が3歳くらいの時でしょうか?

それから、木工場をやっていた祖父の仕事も順調に行き、立派な二階建ての家を建てました。とても広かったので、私たち長女家族も二階に一緒に暮らしていました。私は3人の叔母と一人の叔父を可愛がられながら幸せな日々を過ごしていました。私がまだ小学校に入る前の話です。
ところが突然、祖父が仕事仲間に騙されて?借金の連帯保証人になったせいで、新築の家などをそっくり担保に取られたのです。その日から始まった、祖母の長い長い生活の苦労の日々・・・そんなことも小さかった私の記憶に、断片的に残っています。

でも、さまざまな形の苦労の中にあっても、いつも明るさを失わなかった祖母!その根には、きっと、あの関東大震災での想像を絶する心の苦しみの体験、母親との愛情あふれた暖かい思い出があるのでしょう。

年を取った祖母は祖父と共に、息子夫婦と孫たちに囲まれて、幸せな日々を過ごしていました。
二人は「元気に歩き回っている90歳代のご夫婦」として、地域では有名になりました。

その祖父は、4月に季節はずれの雪が降った日のお昼頃「美代!これから老人クラブへ出かけるんだろう?じゃあ、ワシが玄関付近の雪かきをしてあげるよ。あいにく今日は家に若いのがいないから」と、なんと94歳という高齢にもかかわらず寒さの中、雪かきをして心不全となり、半日後救急病院で亡くなったのでした。最後まで、仲良し夫婦でした。

そしてその数年後・・・祖母は、末期癌で亡くなる直前まで、いつも私たちのことを気遣い、やさしい笑顔で包んでくださいました。

本当に自慢できる、素敵な祖母でした!

お祖母ちゃん!今はあちらの国で、お祖父ちゃんとお幸せな日々を送っていらっしゃるのでしょうね。

いずれ、私たちもそちらの国へ行って、お祖母ちゃんに再会できることでしょう。
 

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