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2008年4月28日 (月)

祖母の想い出①

「あんなに苦しかったことは、私の長い人生で初めてだったわ。
でもね・・・早く元気になって、また老人クラブのみんなと一緒に、民謡を歌ったりしたいからねぇ~ 必死で我慢して頑張ったの・・・」

ほほえみながら95歳の祖母は、お見舞いに訪れた私を見て、病室のベッドで弱々しげにそう語ってくれました。やせこけて、体に沢山のチューブとモニターをつけて、とても痛々しげでした。体内に大量に溜まっている胸水や胆汁を抜くための管や、点滴の管などなど・・・が、掛け布団の下から見えていました。

私は、北海道旅行札幌2泊3日フリーコースの格安ツアーを利用して、パートナーと二人で、祖母のお見舞いに訪れたのです。これは北海道旅行の途中、ついでにお見舞いに寄った風を装うためもありました。祖母に末期癌であることを、決して知らせてはならなかったのです。

そして運の良いことに、その後私はさらにもう一回、祖母とのやさしいひとときを持つことができたのでした。

祖母は、緊急入院した時「癌が全身に転移しているので、あと1,2週間持つかどうか?」という医師の見立てに反して、なんとそれから5ヶ月近く癌と闘いを続けてくれたのでした。入院する直前まで旅行を楽しんでいた祖母が、なんと末期癌だったという事実は、家族にとってまったく寝耳に水の信じがたい話でした。
ともかくも祖母にとってその5ヶ月間は、本当に苦しくつらい日々だったことでしょう!Picture100blog

あの日私が、病室(個室)のドアをそっと開けて・・・・ベッドのそばに近づいて「おばあちゃん・・・」と呼びかけた時、一瞬驚きの表情を見せてから、次に本当に嬉しそうな笑顔をみせてくれた祖母でした。
祖母と二人で、その短い時間に、何といろいろなことを話したことでしょう。

「初孫のあなたはね、私にとって孫というよりも、私自身のもう一人の末娘みたいな感じだったわ。小学生のあなたが、夏休み・冬休みになると必ず我が家へ遊びに来ることになっていて・・・お電話が来ると、一番下の娘と二人で、駅まで迎えに行ったものだったね。あなたは、黒い小さなトランクを下げて毎年やってきたのね・・・」

末娘みたい?それも道理でしょう!私と一番若い叔母は、6歳違い。私は祖母の42歳の時の初孫。祖母自身の子供と言っても、ちっともおかしくありませんでした。
私は祖母の家で、夏休み冬休みの宿題をやり、学校へ提出しなくてはいけない絵も描き、夏休みのかなりをその家で過ごしたのです。
祖母の三女である私にとっての叔母が、まだ赤ちゃんの娘を連れて里帰りした時には、子ども好きだった私が赤ん坊を背負って、半日ベビーシッターをやってあげたりしたことも、懐かしい想い出の一つです。

「ああー早く、民謡を歌いたいわ。退院する時には、この間娘がプレゼントしてくれた、あのきれいな藤色のカーディガンを着ようかしら!」
病室でそんな話をする時の祖母の目は、生き生きと輝いていました。
祖母にとって、民謡を歌うことが生きがいになっていました。自分でラジカセを操作して、マイクで民謡を自分で歌いながら10分用テープに録音しては、娘たち4人そして孫筆頭の私のところに送ってくれました。受け取ったテープは、全部で10本くらいにはなることでしょうか。

明治生まれの祖母は、子供の頃から毎日着物を着ていましたが、80歳の声を聞いたころでしょうか?突然洋服を着始めました。草履の代わりに靴を履いて、洋風のバックを持って・・・。
「洋服って、なんて楽なんでしょう!」
でも、きちんとした格好をしたい時は、必ず着物を着ていました。やはり、着物のほうがシャキッとするのでしょう。確かに着物姿の祖母の方が、品がよく落ち着いた感じがしました。

さて、私が入院中の祖母を納得させるために創作した話「おばあちゃんは今、胆石を溶かすための治療をしているの・・・大きいのでなかなか溶けなくってね。だからしばらく入院していなくてはいけないの。つらいでしょうけれども、もうすこしだけ辛抱してね」を信じて、ひたすら全快する日を待ち望んでいた祖母!
でも、若い頃に看護婦をしていた祖母は、それを本当に信じてくれていたのかどうか?

祖母は・・・心肺機能がかなり落ちていて、鼻には常に酸素吸入のためのカニューラがつけられていて、心臓のモニターも、大きな咳をするたびにひどい不整脈を示しているのでした。

ベッドの傍らにはいつも、心配そうな表情をした祖母の大切な若草姉妹の4人娘(紅葉4人姉妹かも?なぜなら初老の年齢の娘たちだったから。24時間交代で必ず誰かが祖母のベッドサイドに付き添っていたのです)そして・・・息子や孫たちが次々にお見舞いに登場して。

そうなのです!結局、5か月間も壮絶な癌との闘いを続けた祖母は、大切な身内すべてと、心からの語り合いをして・・・そして、静かに花園の国へと旅立っていったのでした。そして、その国では、一足先に旅立っていった祖父と息子の進が、やさしい笑顔で祖母を待っていてくれていたはずなのです。Picture102blog


さて・・・心の眼を祖母の過去へと、向けてみることにしましょうか・・・。

私の子供の頃の祖母との楽しいひとときを思いおこしてみると・・・一緒に見に行った「笠置シズ子ショー」があります。舞台でリズミカルに踊りながら、表情豊かに歌っていた笠置シズコ!幼い私にとって、たぶん初めて見た生のショー!それは、なんて驚きに満ちて楽しかったことでしょうか!

それから、沢山の母物映画を、一緒に見に行ったことも思い出します。

母親役の三益愛子と、その子供役の白鳥みずえ(松島トモ子の時もあった)が出演する母物シリーズのお涙頂戴映画(「母を訪ねて三千里」風の筋書きが多かった)を、どのくらい見に行ったことでしょうか?
これは、祖母の大好きな映画でした。当時とても涙もろかった私は、祖母と一緒に大涙を流しながら、劇場の片隅にちょこんと座っていたことでしょう。あれは、私が何歳のことでしょう?

かの有名な「君の名は」の映画も、祖母に連れられて見に行きました。子供の私には、内容がよく理解できませんでしたが。
今考えると、看護婦姿の主人公・・・祖母は、そこに自分の若き日の姿を重ね合わせていたのでしょうか?当時たぶん小学校の低学年だった私は、祖母が若い頃看護婦をしていたことを、全く知りませんでした。というか、そのことを詳しく知ったのは、数年前祖母が90歳の時に、思い出話をしてくれた時だったのです。

子供時代、祖母の家で迎えるお正月は、とても楽しみなひとときでした。というのも祖母が、さまざまな種類のおせち料理を大量に作っては、子供たちや孫たちを歓迎してくれたからです。おせち料理の中で私の一番好きだったのは、イクラが沢山入った「なます」でした。あと、昆布巻きや黒豆や・・・。

祖母は、お漬け物作りもプロ級でした。沢山の種類のお漬け物が、祖母の手で毎年丁寧に作られました。このお漬け物も、私の大好きな物でした。奈良漬けは、甘くておやつ代わりにもなりました。でも食べ過ぎると酔っ払ってしまいますが・・・。

そうそう、祖母が80歳頃のこと、沢庵漬け用の大根をたくさん屋上に干していて、そこから降りるときに梯子から足を滑らせて落ちて、足の骨を折って2ヶ月くらい?動けなくなったことがありました。
「自分ではまだ若いと思っていたのに、とてもショック!」と、しょんぼりしていたことを思い出します。そのくらい、年を取っても祖母は元気一杯だったのです。

元気な最高齢の民謡の上手なおばあさんということで、市長さんから表彰をされたこともあったようです。地方新聞にも写真が出たことがあります。80歳代も、ゲートボールの選手として頑張っていたようです。

お料理の得意だった祖母は、魚釣りが趣味だった祖父が、大量に釣ってくるイワナという美味の小魚を麴につけて鮨を作ったり、干物にしてから昆布巻きを作ったり、本当にいろいろな保存食を作っていました。これも住んでいた場所が北海道という地のせいで、冬場には暖房のないお部屋に保存するだけでよかったので、いろいろな種類をたくさん作れたのでしょう。

祖母は、和裁も得意で孫たちの浴衣など、あっという間に縫ってくれましたし、普段用の着物も、すばやく上手に縫ってくれたものでした。そして祖母は、なんと80歳代になるまで老眼鏡なしで、針穴に糸を通すことができました。               
Picture101blog

ある時私は札幌でのクラス会の帰りに、祖母の元を訪れました。祖母の90歳の時です。その時、これが最後のチャンスかもしれないと思って、祖母にビデオカメラを向けながら・・・祖母自身のルーツと言うか、自分史とも言うべきお話を、30分ばかり質問形式にして聞かせて貰いました。今、ビデオを見直すと、私はあまりよい聞き手兼質問者ではなかったことが悔やまれます。

それはともかくとして、そのビデオの内容は私にとってもほかの身内にとっても、宝物になるに違いないと思いながら・・・祖母の語りに、じっと耳を傾けていました。
それは、何と感動的な、中身の濃い語りだったことでしょう。
90歳の高齢者の女性が話しているとは思えないほど、その記憶は鮮明でした。
とはいえ、やはり高齢なので、多少記憶違いもあるかもしれませんが、それはそれとして90歳の祖母の語りに忠実に、これを記しておきたいと思っています。

関東大震災の直後のこと!まだ若い娘だった祖母が駒住兄さんと一緒に、被災したお母さんお姉さんたちを探しに、お姉さん家族の住んでいた浅草近くの小学校の校庭へ行った話・・・でも、そこはすっかり焼け野原になっていて、お兄さんの手を握りながら沢山の焼死体を1つ1つ確認しながら、最愛のお母さんの姿を求めて、必死で歩き回ったそうです。

「本当に凄惨な有様だったわ。半焼けの遺体やら、すでに灰になっている遺体もあって、気持ち悪くなったけれども、必死でお母さんたちを探したの」

そして、ようやく見覚えのあるお母さんの、金属の大きな持ち手のついた焼けこげたカバンを発見した時の、深い哀しみ・・・。カバンの持ち手には、父親がつけてくれた真鍮の名札がしっかりとついていて、そこに母親の旭川の住所と名前が刻んであったそうです。
でもそのあたりの遺体は、かなり焼け焦げていて、どれが誰か全く分からなかったそうです。

当時19歳だった祖母!
その時、たぶん祖母は、お兄さんに抱きしめられながら・・・泣き崩れたことでしょう。

「その翌々日、やっと新聞が発行されてね。まだラジオ放送もなかった時代だから、情報は新聞しかなかったの。新聞記事に浅草のその小学校で亡くなった人の灰と骨を、本所被服廠にまとめて弔ってあるので、分けてほしい人は取りに来るようにと書いてあったの。それで小さな木の箱を用意して駒住兄さんとそこへ行き、灰と骨を少しずつ貰ってきたの。この中にきっと母さんと姉さんの遺骨が混じっていると信じてね」

祖母は、そんな体験を「今ここで・・・」というリアルさで、淡々と語ってくれたのでした。当時は、ニュースなどの情報を得るのは、とても大変だったようです。調べてみると、ラジオ放送は関東大震災の2年後の1925年にやっと試験放送が始まったのでした。
http://www.tanken.com/sinsai.html(関東大震災のこと)


(続く→祖母の想い出②へ)
http://sabakunoizumi-777.cocolog-nifty.com/poucesverts/2008/04/post_863a.html

       

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