カテゴリー「宇宙船地球号の仲間たち」の記事

2009年4月20日 (月)

ペットの運命あれこれ

今、室内飼いの小型のワンちゃんを飼いたいな、と思っています。
アレルギー体質の私の場合は、抜け毛の少ないシングルコートのトイプードルかシーズあたりを? 

ネットで感動的な動画を見つけました。ペットと人間の心の交流を暖かく悲しく描いています。ついつい目に涙があふれてしまいます。

「くずかごに頭を」というタイトルです。
http://www.youtube.com/watch?v=tnD1LK7Ikvk

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さて・・・ペットについてネットでいろいろ調べてみると、いわゆるペットブームの裏に、何匹ものペットたちの哀れな運命が隠されていることに気づかされて、重く暗い気持ちになっています。


まず・・・たくさんのペットが、商品としてどんどん繁殖させられています。その数は実際の需要をはるかに越えているそうです。たとえばペット犬の場合は、生後3ヵ月前後の子犬が最も可愛らしくて人気があるようです。

でもペット犬は生後半年を過ぎるとだんだんに商品価値が下がり始めて、ペットショップでは「バーゲン品?」として、ショウウインドウの端っこに置かれていたりします。大きくなった体には不釣合いの小さな檻に入れられて、心なしか悲しげに見えます。その子達は、何の訓練もされず十分な愛情も得られず?ただ生かされているだけなのでしょうか?

そのため、商品価値のある期間を少しでも長くしようと、1ヶ月位の赤ちゃん犬が親から無理やり離されて、小さな檻にいれられて売り物としてペットショップに出される場合があるのです。お母さんにしっかり甘えて寄り添っておっぱいを吸っているはずの赤ちゃんが、ぬいぐるみ人形に体を寄せて眠っている姿を見ると、心が痛くなります。

良心的なブリーダは、生後50日頃までは売らずに、お母さんと一緒に過ごさせているようです。どんな動物であっても乳児期はお母さんと一緒にいないと、真の十分な愛情を受けられないし、社会性も育たないし、性格形成にひずみをもたらすと言われています。たくさんの動物たちのドキュメンタリー番組を見ていると、それについては本当にそうだと感じます。これは、どんなに頑張っても人間が代わってできるものではありません。


さて一方で、とても気になることがあります。

売れ残った育ちすぎの?ぺットの運命です。
確かにわかっている道の一つは、保健所での殺処分。ああ、なんてことでしょう!
そしてそれ以外のペットの運命は?これもかなり悲観的です。

以前、我が家の近くのペットショップで、ミニ豚君が売られていました。いくらたっても売れず、豚君はずいぶんと体が大きくなってしまいましたが、ある日姿が消えていました。
パートナーと「まさか・・・されていないでしょうね?」と彼の運命を心配したものですが。


良心的なブリーダの方は、商品価値をとっくに通り越してしまった犬たちを自宅で大事に育てていて「里親募集」して無料であげています。これはとてもすばらしいことだと思います。

でも通常のペットショップではこれをすると、ペットが売れなくなるのでやっていませんが、商品価値がなくなったペットの運命は?とても気になります。

繁殖だけのために、ひどい環境の中でただ生かされているだけのペットもいます。想像を絶する哀しいペットの運命!
http://www8.pekori.to/~vov/mie/mie_ver3.html



さて一方保健所には、ざまのペットが運び込まれます。
捨てられるペットも増えているようです。ペットが老齢化したり病気になって飼いきれなくなったり、ペットに避妊処置をせずに子どもがたくさん生まれてしまい、自宅では飼いきれないから処分してほしい・・・とか。虐待されて傷ついて道端に捨てられているペットも増えているようです。

下のは「奇跡の母子」という動画です。これも感動的な内容です。
http://www.animalpolice.net/jititai/himawari/index.html



じつは殺処分寸前のペットたちを救い出して、ホームページなどで里親募集をしているボランティア団体がいくつもあります。たとえばこんな風です。

http://www.satoya-boshu.net/keisai/d.htm
http://www.satooya.net/index.html


私も、そんな可哀想な運命のペットを飼ってもよいとも思っていますが、室内で飼いにくい中型犬以上で抜け毛の多い犬種が多く、なかなか思うようにいきません。

最近日本では、ペットの数が子供の数をはるかに超えているそうです。
そのせいもあり、最近ではペットと一緒に泊まれるホテルや旅館が増えているようです。


私も早く、わが子をリュックに入れて背負い、サイクリングロードを電動アシスト自転車(もうすぐ新品が届く予定)で共に軽快に駆け抜けたいものです。

幸い、我が家の近くには、すてきなサイクリングロPicturebloga13ードがあり、道沿いには四季折々さまざまの花が咲き乱れるそうです。楽しみ・・・


さて本題に戻って・・・ペットのことは、単なるお金儲けの商品としてではなく、感情を持った大切な命として、もっともっと大事に考えていきたいものです。繁殖については、本当に慎重にしてもらいたいものです。   

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2008年4月28日 (月)

祖母の想い出②

祖母の想い出①続き 
http://sabakunoizumi-777.cocolog-nifty.com/poucesverts/2008/04/post_eac5.html

☆★☆★☆★☆★☆★(祖母の語りから) 

Picture103blog_2  
祖母の実家は、富山で手広く魚屋を営んでいました。
相当景気が良くて、小豆の株を沢山持っていたようです。そして、小豆が不作だった時に、小豆相場が高騰して、実家は大いに富を蓄えたのでした。

幼い頃に住んでいた家は、沢山の使用人がいて、とても立派だったそうです。一番記憶に残っているのは、幼かったせいか?トイレのこと。4畳半ほどの畳敷きの部屋で、真ん中に便器があり、漆塗りの立派な蓋がついていたそうです。先日テレビの美術番組で、どこかの国宝級の建物を映していましたが・・・その建物には、祖母が話していたと同じようなトイレがあって、その映像が出ていました。

男女4人ずつの8人兄弟姉妹のなかで、祖母は上から7番目。長女は、実家が裕福な時代にお嫁に行ったので、たいそう豪華な結婚式をして、その結婚の長い行列が一町も続いたとか、話に聞いているそうです。このお姉さんは、結婚後数年して病気で亡くなっているようです。


祖母は幼かったので当時の富山での記憶は、あまり残っていないとのことです。
「5歳までしか住んでいなかったからね」
「すぐ向かいに呉服屋さんがあって、当時3歳だった弟きさ(喜作)ちゃんが、裸足でよく遊びに行っていたことは、憶えているわ・・・」
日露戦争のあった時代だったそうです。

この祖母の弟喜作さん(私にとっては大叔父)のことは、私の記憶の中では、祖母と一緒にお見舞いに行った東京の千歳烏山の某病院で、胃癌の末期症状の痛みに苦しむ姿として、強く残っています。また、その弟の葬儀に出席する祖母を、私は羽田空港に迎えに行きました。

晩年祖母は、東京暮らしの仲良しの駒住兄さん、かしく姉さん(床屋をしていたお姉さんも、晩年は東京の長男と同居していた)と会うと、幸せそうな表情でいろいろな懐かしい話をしていました。なぜかいつもお部屋の隅のほうに、三人膝を寄せ合って・・・。

お兄さんがいつも優しい目をして、二人の妹が話すのをニコニコしながら聞いていらした姿が、今も忘れられません。

富山時代の話も、その時にお兄さんから聞いて思い出したり、またあらためて知った内容もあるようです。
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さて話を富山に戻しましょう。

ある年、小豆が大豊作となって、小豆相場が急激に下落してしまったそうです。それで、それまで住んでいた立派な家が、すべて抵当にとられてしまったのでした。
しかも、土蔵の俵に入れてしまってあったはずの沢山のお金も、道楽者(音楽隊などで遊んだりして)の長男の兄さんが、勝手にかなり持ち出してしまっていたのでした。


一瞬のうちに没落した一家は、夜逃げ同然にして、当時東京に住んでいた知人?を頼って富山から逃げ出したのでした。その時、祖母は5歳、末っ子の弟は3歳だったそうです。とりあえず、東京に一泊した家族は、東京組と北海道組とに別れることになりました。 

「北海道へ行けば、お金儲けができるそうだ!みんなで行こう!」 

一家の大黒柱のお父さんの言葉に励まされて、一家の大部分が見知らぬ寒い土地、北海道へ渡ることになったのです。そこには、大谷さんと言う知り合いがいました。長男の兄さんとお父さん二人が、まず最初に北海道へ渡り、家族で住むための家などを確保してから・・・残りの家族が、旅立つことになりました。

たぶん、最小限の荷物を抱えて、何日も何日も汽車と青函連絡船の旅を続けたことでしょう。そして、5歳の幼い少女は、何を思っていたことでしょう! 


次兄駒住と、次姉が東京にそのまま残り・・・それぞれ、お酒屋の丁稚奉公と、お屋敷勤めをすることになりました。


駒住兄さんは夜学中学(今の高校にあたる)に通いながら真面目によく働いたので、やがて店主から「のれん分け」をして貰って、お店を構えました。そして、まもなく、北海道に渡っていた一番末の弟を東京に呼んで、自分の阿佐ヶ谷のお店を手伝って貰うことにしたのです。

お店は順調にいき、やがて弟にも吉祥寺に酒屋の支店を持たせお嫁さんを貰うまでになりました。

一方、次姉は、お屋敷勤めのおかげで行儀見習いもでき、さらにお屋敷勤めで習い憶えたお裁縫の腕もめきめきと上達して、やがては自宅でお裁縫の仕事をするまでになっていました。そして、結婚して女の子と男の子を授かりました。男の子は震災で亡くなった時、3歳の可愛い盛りでした。震災の少し前その姉が体を壊してしまい、母親がその看病のためにたまたま上京していて、震災にあったのでした。なんという運の悪さ!

姉のもう一人の女の子は震災のあった時、踊りのお稽古に行っていたそうですが、その消息は全くわからなかったそうです。おそらく、震災で亡くなったのだろうということでした。Picture80blog

さて・・・北海道組は、北海道の旭川に落ち着きました。両親、二人の兄、姉、そして弟との計7人でした。

祖母の記憶によれば、住んだ場所は3条6丁目だそうです。祖母はそこから小学校へ入学して通いました。かしく姉さんは小学校を終えると、床屋さんに見習いに行くことになりました。そこで頑張って床屋の資格を取って、とうとう自分の床屋を開くまでになったのでした。やがて消防の番屋に勤めていた若者と結婚して、二男二女に恵まれました。

このかしく姉さんの夫は、やがて消防の仕事を辞めて、当時札幌で手広く商売をしていた弟の靴屋を、手伝うことにしたのでした。しかし、その幸せもつかの間、脳卒中に倒れてしまい、その後かしく姉さんの15年近くの?長い介護の日々が、続いたのでした。その後東京で長男と同居。このお姉さんは、晩年いろいろ苦労を重ね、90歳で亡くなっています。

さて話は戻って、祖母は、小学校を無事に卒業して家にいました。 

「勉強は、お習字と国語が得意だったわ。算数と理科と体育は苦手。成績は国語が甲で、お習字と作文は甲の上。あとは乙がたくさん。作文が得意だったの。でも丙(不可)はなかった。ふふふ・・・」

そんな祖母は、90歳になっても手紙を良く書いていました。私も長文の手紙を沢山貰いました。今、私の宝物として、引き出しにしまってあります。

祖母は、なかなかの名文を書きます。 

さて、祖母の父親はなかなか感性の豊かな人でしたが、胃弱な人で、しばしば胃痙攣様発作を起こしては、近所のお医者さんの往診を受けていました。竹村病院と、黒川病院(こちらは産婦人科の病院だったそうですが、当時の医者は、看板に関係なくいろいろな病人を診ていたそうです)に往診に来て貰っては、注射して貰っていたとのことです。

「たぶん、モルヒネだったのでは?」と、祖母。

その父親は、子供のしつけに厳しい人でした。 

冬の寒さの中で、父1人が囲炉裏に置いた薪ストーブを占領して、背中をあぶっていて・・・子供たちは、隣の狭い部屋で炭火の炬燵で暖をとっていたそうです。
「でも・・・炬燵から出ると寒くて、なかなか炬燵から出られなくてね。学校の勉強も、炬燵に入ってしたものだったわ」
北海道の凍てつく寒さの中で、炬燵一つの暖房・・・今の私達からは、想像を絶する話でしょう。しかも当時の家は、すきま風の多い襖と障子ばかりの家です。現代のアルミサッシなんて、まるで無縁の世界でした。

この父親は、かなりの読書家で歌をたしなむ人だったそうです。 

最愛の妻が震災で亡くなった時、その悲しみを歌に書いたそうです。その歌が、今も仏壇の中にしまってあるということなので、ぜひ、読んでみたいと思っています。
もしも、人生のボタンの賭けあわせが少し違っていたら・・・この父親は、お金持ちの旦那様として、のんびりと読書三昧の日々を送り、そして祖母もお嬢様として日本舞踊やお琴などのお稽古事をして優雅に生活して・・・今とはまるで違う人生を歩んでいたことかもしれません。
でも・・・もしそうだったなら、私はこの世に存在していなかったのですね!


さて・・・ある日、父親の往診に来て下さった黒川医院の医者が、父親にこう言ったそうです。

「お宅になかなかよい娘さんがいますね。私の病院に看護婦見習いとして、寄こしてみませんか?」
「家の娘で間に合うのなら、お願いします!」

こういうわけで祖母は、黒川病院の看護婦見習いとして16歳まで(その後東京に行ったので)勤めることになったのでした。それは、どうやら病院に泊まり込みのきつい仕事だったようです。

母親はとても優しい人で「洗濯物はないのか?オレ(当時富山では、女性も自分のことを私ではなくてオレと言っていたそうです)が洗ってあげるから、出しなさい!」と、病院へやってきては、いつも祖母の衣類などを洗ってくれたそうです。

お正月を過ぎた頃、わざわざお餅を焼いて黄な粉たっぷりの安倍川餅を作っては、お昼休みを見計らって、病院にそっと届けてくれたりしたそうです。
「でもね、仕事中に食べるわけには行かないし・・・結局、夕方仕事を終えてから、同僚の女性にも分けてあげて二人で食べたの。ただ、その時刻には、焼きたての柔らかいはずのお餅も固くなっていてね!でも・・・お母さんの気持ちが嬉しかった・・・当時、お母さんのことは、おっかさんと呼んでいたわ」

そんな折り、東京の駒住兄さん(当時25歳)が、2度目の徴兵のために一時北海道にやってきたのでした。旭川の第7師団に入隊したのでした。

その任を終えて帰京する時に「姉さんが寂しがっているから、美代も東京に来ないか?」と声をかけてくれたので、大喜びで一緒に上京することにしたそうです。

「そりゃあね、若い娘にとっては、東京は憧れの街だったもの!」

当時を思い出して・・・とても幸せそうな、夢見るような笑顔を見せてくれた90歳の祖母でした。

東京
には、三年間だけ住んだそうです。その時に、関東大震災を経験したのです。震災の壮絶な哀しみの体験が、祖母の優しさの源なのではないでしょうか?そのことを、ちょっと想像しただけで、私の胸は詰まり・・・涙があふれそうになってしまいます。

東京にいた時「美代は北海道で看護婦をしていたのだから、こちらでも病院勤めをしたらどうか?」と駒住兄さんに勧められて、牛込のマキ病院で看護婦(最初は見習いで、やがて正看護婦になった)をすることになりました。そして夜は、助産婦学校に通ったそうです。
でも結局・・・関東大震災後に、祖母は哀しみのうちに北海道に戻ったのでした。お母さんとお姉さんとの暖かな日々の思い出だけを胸に・・・。


若い日道楽者だった長兄は、北海道で花火工場を始めたそうですが、その花火工場が爆発して破産してしまったそうです。そしてそれによって、北海道へ密かに持っていった家族の財産のほとんどをなくしてしまったそうです。この長兄は、晩年事故の後遺症によって亡くなり・・・幼かった私は、祖母と二人でそのお葬式へと出かけたのでした。暗い、哀しい記憶が私の心の片隅に残っています。

さて、祖母の話の中で、三男のお兄さんの話が出たことがありませんでした。

祖母の中で、口にしたくない悲しい思い出と結びついていたのでしょうか?先日私の母(祖母の長女だから、いろいろ知っているだろうと思い)に聞いてみました。

「その叔父さんは、胸を悪くしていて普通の仕事ができなかったので、一人で商売をしていたの。アイスキャンディを作って売ったりしていて、こつこつお金を貯めて、とうとう自分の家を建てたの。結婚はせずにずっと独身。長兄家族が生活に困ったので(例の花火工場爆発による?)一緒に住まわせてあげたの。でも、自分は4畳半一間に住んで、長兄家族に残り全部貸してあげて、結局若くして亡くなったの。お祖母ちゃんの男の兄弟は、みんな心優しかったから・・・」

「胸の病気が移るといけないからって、私たち子供はその叔父さんと離れて暮らしていたので、叔父さんとはあまり話をしていないの」と母。

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さて旭川で、祖母の自宅を仕事で訪れた若き日の祖父が、若き日の祖母の可憐さに一目惚れ。その後二人は幸せな結婚をして、やがて二男四女を授かるのでした。

ただ・・・最初の長男の進は、小さな時に病死しています。祖母と祖父は、大事な男の子をなくして悲しみに暮れたようです。でも、その後しばらくしてやっと男の子を一人授かっています。

そして、私の記憶のかすかに、火事で焼け出された祖母一家の姿が残っています。あれは、私が3歳くらいの時でしょうか?

それから、木工場をやっていた祖父の仕事も順調に行き、立派な二階建ての家を建てました。とても広かったので、私たち長女家族も二階に一緒に暮らしていました。私は3人の叔母と一人の叔父を可愛がられながら幸せな日々を過ごしていました。私がまだ小学校に入る前の話です。
ところが突然、祖父が仕事仲間に騙されて?借金の連帯保証人になったせいで、新築の家などをそっくり担保に取られたのです。その日から始まった、祖母の長い長い生活の苦労の日々・・・そんなことも小さかった私の記憶に、断片的に残っています。

でも、さまざまな形の苦労の中にあっても、いつも明るさを失わなかった祖母!その根には、きっと、あの関東大震災での想像を絶する心の苦しみの体験、母親との愛情あふれた暖かい思い出があるのでしょう。

年を取った祖母は祖父と共に、息子夫婦と孫たちに囲まれて、幸せな日々を過ごしていました。
二人は「元気に歩き回っている90歳代のご夫婦」として、地域では有名になりました。

その祖父は、4月に季節はずれの雪が降った日のお昼頃「美代!これから老人クラブへ出かけるんだろう?じゃあ、ワシが玄関付近の雪かきをしてあげるよ。あいにく今日は家に若いのがいないから」と、なんと94歳という高齢にもかかわらず寒さの中、雪かきをして心不全となり、半日後救急病院で亡くなったのでした。最後まで、仲良し夫婦でした。

そしてその数年後・・・祖母は、末期癌で亡くなる直前まで、いつも私たちのことを気遣い、やさしい笑顔で包んでくださいました。

本当に自慢できる、素敵な祖母でした!

お祖母ちゃん!今はあちらの国で、お祖父ちゃんとお幸せな日々を送っていらっしゃるのでしょうね。

いずれ、私たちもそちらの国へ行って、お祖母ちゃんに再会できることでしょう。
 

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祖母の想い出①

「あんなに苦しかったことは、私の長い人生で初めてだったわ。
でもね・・・早く元気になって、また老人クラブのみんなと一緒に、民謡を歌ったりしたいからねぇ~ 必死で我慢して頑張ったの・・・」

ほほえみながら95歳の祖母は、お見舞いに訪れた私を見て、病室のベッドで弱々しげにそう語ってくれました。やせこけて、体に沢山のチューブとモニターをつけて、とても痛々しげでした。体内に大量に溜まっている胸水や胆汁を抜くための管や、点滴の管などなど・・・が、掛け布団の下から見えていました。

私は、北海道旅行札幌2泊3日フリーコースの格安ツアーを利用して、パートナーと二人で、祖母のお見舞いに訪れたのです。これは北海道旅行の途中、ついでにお見舞いに寄った風を装うためもありました。祖母に末期癌であることを、決して知らせてはならなかったのです。

そして運の良いことに、その後私はさらにもう一回、祖母とのやさしいひとときを持つことができたのでした。

祖母は、緊急入院した時「癌が全身に転移しているので、あと1,2週間持つかどうか?」という医師の見立てに反して、なんとそれから5ヶ月近く癌と闘いを続けてくれたのでした。入院する直前まで旅行を楽しんでいた祖母が、なんと末期癌だったという事実は、家族にとってまったく寝耳に水の信じがたい話でした。
ともかくも祖母にとってその5ヶ月間は、本当に苦しくつらい日々だったことでしょう!Picture100blog

あの日私が、病室(個室)のドアをそっと開けて・・・・ベッドのそばに近づいて「おばあちゃん・・・」と呼びかけた時、一瞬驚きの表情を見せてから、次に本当に嬉しそうな笑顔をみせてくれた祖母でした。
祖母と二人で、その短い時間に、何といろいろなことを話したことでしょう。

「初孫のあなたはね、私にとって孫というよりも、私自身のもう一人の末娘みたいな感じだったわ。小学生のあなたが、夏休み・冬休みになると必ず我が家へ遊びに来ることになっていて・・・お電話が来ると、一番下の娘と二人で、駅まで迎えに行ったものだったね。あなたは、黒い小さなトランクを下げて毎年やってきたのね・・・」

末娘みたい?それも道理でしょう!私と一番若い叔母は、6歳違い。私は祖母の42歳の時の初孫。祖母自身の子供と言っても、ちっともおかしくありませんでした。
私は祖母の家で、夏休み冬休みの宿題をやり、学校へ提出しなくてはいけない絵も描き、夏休みのかなりをその家で過ごしたのです。
祖母の三女である私にとっての叔母が、まだ赤ちゃんの娘を連れて里帰りした時には、子ども好きだった私が赤ん坊を背負って、半日ベビーシッターをやってあげたりしたことも、懐かしい想い出の一つです。

「ああー早く、民謡を歌いたいわ。退院する時には、この間娘がプレゼントしてくれた、あのきれいな藤色のカーディガンを着ようかしら!」
病室でそんな話をする時の祖母の目は、生き生きと輝いていました。
祖母にとって、民謡を歌うことが生きがいになっていました。自分でラジカセを操作して、マイクで民謡を自分で歌いながら10分用テープに録音しては、娘たち4人そして孫筆頭の私のところに送ってくれました。受け取ったテープは、全部で10本くらいにはなることでしょうか。

明治生まれの祖母は、子供の頃から毎日着物を着ていましたが、80歳の声を聞いたころでしょうか?突然洋服を着始めました。草履の代わりに靴を履いて、洋風のバックを持って・・・。
「洋服って、なんて楽なんでしょう!」
でも、きちんとした格好をしたい時は、必ず着物を着ていました。やはり、着物のほうがシャキッとするのでしょう。確かに着物姿の祖母の方が、品がよく落ち着いた感じがしました。

さて、私が入院中の祖母を納得させるために創作した話「おばあちゃんは今、胆石を溶かすための治療をしているの・・・大きいのでなかなか溶けなくってね。だからしばらく入院していなくてはいけないの。つらいでしょうけれども、もうすこしだけ辛抱してね」を信じて、ひたすら全快する日を待ち望んでいた祖母!
でも、若い頃に看護婦をしていた祖母は、それを本当に信じてくれていたのかどうか?

祖母は・・・心肺機能がかなり落ちていて、鼻には常に酸素吸入のためのカニューラがつけられていて、心臓のモニターも、大きな咳をするたびにひどい不整脈を示しているのでした。

ベッドの傍らにはいつも、心配そうな表情をした祖母の大切な若草姉妹の4人娘(紅葉4人姉妹かも?なぜなら初老の年齢の娘たちだったから。24時間交代で必ず誰かが祖母のベッドサイドに付き添っていたのです)そして・・・息子や孫たちが次々にお見舞いに登場して。

そうなのです!結局、5か月間も壮絶な癌との闘いを続けた祖母は、大切な身内すべてと、心からの語り合いをして・・・そして、静かに花園の国へと旅立っていったのでした。そして、その国では、一足先に旅立っていった祖父と息子の進が、やさしい笑顔で祖母を待っていてくれていたはずなのです。Picture102blog


さて・・・心の眼を祖母の過去へと、向けてみることにしましょうか・・・。

私の子供の頃の祖母との楽しいひとときを思いおこしてみると・・・一緒に見に行った「笠置シズ子ショー」があります。舞台でリズミカルに踊りながら、表情豊かに歌っていた笠置シズコ!幼い私にとって、たぶん初めて見た生のショー!それは、なんて驚きに満ちて楽しかったことでしょうか!

それから、沢山の母物映画を、一緒に見に行ったことも思い出します。

母親役の三益愛子と、その子供役の白鳥みずえ(松島トモ子の時もあった)が出演する母物シリーズのお涙頂戴映画(「母を訪ねて三千里」風の筋書きが多かった)を、どのくらい見に行ったことでしょうか?
これは、祖母の大好きな映画でした。当時とても涙もろかった私は、祖母と一緒に大涙を流しながら、劇場の片隅にちょこんと座っていたことでしょう。あれは、私が何歳のことでしょう?

かの有名な「君の名は」の映画も、祖母に連れられて見に行きました。子供の私には、内容がよく理解できませんでしたが。
今考えると、看護婦姿の主人公・・・祖母は、そこに自分の若き日の姿を重ね合わせていたのでしょうか?当時たぶん小学校の低学年だった私は、祖母が若い頃看護婦をしていたことを、全く知りませんでした。というか、そのことを詳しく知ったのは、数年前祖母が90歳の時に、思い出話をしてくれた時だったのです。

子供時代、祖母の家で迎えるお正月は、とても楽しみなひとときでした。というのも祖母が、さまざまな種類のおせち料理を大量に作っては、子供たちや孫たちを歓迎してくれたからです。おせち料理の中で私の一番好きだったのは、イクラが沢山入った「なます」でした。あと、昆布巻きや黒豆や・・・。

祖母は、お漬け物作りもプロ級でした。沢山の種類のお漬け物が、祖母の手で毎年丁寧に作られました。このお漬け物も、私の大好きな物でした。奈良漬けは、甘くておやつ代わりにもなりました。でも食べ過ぎると酔っ払ってしまいますが・・・。

そうそう、祖母が80歳頃のこと、沢庵漬け用の大根をたくさん屋上に干していて、そこから降りるときに梯子から足を滑らせて落ちて、足の骨を折って2ヶ月くらい?動けなくなったことがありました。
「自分ではまだ若いと思っていたのに、とてもショック!」と、しょんぼりしていたことを思い出します。そのくらい、年を取っても祖母は元気一杯だったのです。

元気な最高齢の民謡の上手なおばあさんということで、市長さんから表彰をされたこともあったようです。地方新聞にも写真が出たことがあります。80歳代も、ゲートボールの選手として頑張っていたようです。

お料理の得意だった祖母は、魚釣りが趣味だった祖父が、大量に釣ってくるイワナという美味の小魚を麴につけて鮨を作ったり、干物にしてから昆布巻きを作ったり、本当にいろいろな保存食を作っていました。これも住んでいた場所が北海道という地のせいで、冬場には暖房のないお部屋に保存するだけでよかったので、いろいろな種類をたくさん作れたのでしょう。

祖母は、和裁も得意で孫たちの浴衣など、あっという間に縫ってくれましたし、普段用の着物も、すばやく上手に縫ってくれたものでした。そして祖母は、なんと80歳代になるまで老眼鏡なしで、針穴に糸を通すことができました。               
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ある時私は札幌でのクラス会の帰りに、祖母の元を訪れました。祖母の90歳の時です。その時、これが最後のチャンスかもしれないと思って、祖母にビデオカメラを向けながら・・・祖母自身のルーツと言うか、自分史とも言うべきお話を、30分ばかり質問形式にして聞かせて貰いました。今、ビデオを見直すと、私はあまりよい聞き手兼質問者ではなかったことが悔やまれます。

それはともかくとして、そのビデオの内容は私にとってもほかの身内にとっても、宝物になるに違いないと思いながら・・・祖母の語りに、じっと耳を傾けていました。
それは、何と感動的な、中身の濃い語りだったことでしょう。
90歳の高齢者の女性が話しているとは思えないほど、その記憶は鮮明でした。
とはいえ、やはり高齢なので、多少記憶違いもあるかもしれませんが、それはそれとして90歳の祖母の語りに忠実に、これを記しておきたいと思っています。

関東大震災の直後のこと!まだ若い娘だった祖母が駒住兄さんと一緒に、被災したお母さんお姉さんたちを探しに、お姉さん家族の住んでいた浅草近くの小学校の校庭へ行った話・・・でも、そこはすっかり焼け野原になっていて、お兄さんの手を握りながら沢山の焼死体を1つ1つ確認しながら、最愛のお母さんの姿を求めて、必死で歩き回ったそうです。

「本当に凄惨な有様だったわ。半焼けの遺体やら、すでに灰になっている遺体もあって、気持ち悪くなったけれども、必死でお母さんたちを探したの」

そして、ようやく見覚えのあるお母さんの、金属の大きな持ち手のついた焼けこげたカバンを発見した時の、深い哀しみ・・・。カバンの持ち手には、父親がつけてくれた真鍮の名札がしっかりとついていて、そこに母親の旭川の住所と名前が刻んであったそうです。
でもそのあたりの遺体は、かなり焼け焦げていて、どれが誰か全く分からなかったそうです。

当時19歳だった祖母!
その時、たぶん祖母は、お兄さんに抱きしめられながら・・・泣き崩れたことでしょう。

「その翌々日、やっと新聞が発行されてね。まだラジオ放送もなかった時代だから、情報は新聞しかなかったの。新聞記事に浅草のその小学校で亡くなった人の灰と骨を、本所被服廠にまとめて弔ってあるので、分けてほしい人は取りに来るようにと書いてあったの。それで小さな木の箱を用意して駒住兄さんとそこへ行き、灰と骨を少しずつ貰ってきたの。この中にきっと母さんと姉さんの遺骨が混じっていると信じてね」

祖母は、そんな体験を「今ここで・・・」というリアルさで、淡々と語ってくれたのでした。当時は、ニュースなどの情報を得るのは、とても大変だったようです。調べてみると、ラジオ放送は関東大震災の2年後の1925年にやっと試験放送が始まったのでした。
http://www.tanken.com/sinsai.html(関東大震災のこと)


(続く→祖母の想い出②へ)
http://sabakunoizumi-777.cocolog-nifty.com/poucesverts/2008/04/post_863a.html

       

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2008年4月19日 (土)

アイヌ民族について

つい最近ふとしたことで、アイヌ民族についてきちんと調べてみようと思い立ちました。

そして、アイヌ民族について知れば知るほど、かってアメリカ大陸でインディアンの人々が受けたと同じ様な苦難を受けたアイヌの人々のことを思って、言葉を無くしてしまいました。
北海道の地で、共に暮らしていたアイヌ民族のことを、その文化を、その歴史を、私はあまりに何にも知らなかったのです。
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そして、私の身近な人でさえ、アイヌ民族について誤解と偏見を持っていることを知り、とてもショックを受けています。正確な知識を持つことが、いかに大事なことかを痛感しています。そのためにも、今私が知ったいくらかのことを、このブログに載せたいと思っています。

私は北海道の旭川市生まれ。高校一年までそこに暮らしていました。
旭川の近文というところに、アイヌ民族の人々が固まって暮らしている部落がありました。どのくらいの数の人々が住んでいたのか、当時の私にはわかりませんでした。
アイヌの人は、家も着るものもほとんど私たち和人?と同じだったのなので、どこからどこまでがアイヌ民族の集落だったのかもよくわかりませんでした。
当時の日本の同化政策のもとで、アイヌ文化が否定されたせいだということを、今になって知りました。


私は、たまたま旭川の近文の近くに住んでいて、戦後のベビーブームのせいで急きょ新設された北門中学校(後で知ったことですが、もともとアイヌの共有地だった場所に建てられたようです)に通うことになり、毎日アイヌ部落を通り抜けて通学していました。クラスメートにもアイヌの人がいました。今考えると、たぶん?やや貧しい暮らしをしていたように思います。

そして、下に載せてあるホームページの中の「知里幸恵文学碑」が建てられた場所が、彼女の育った家のあった場所であり、またその後に私の母校の北門中学校の校庭となった場所だったようです。私はこの中学校の最初の卒業生でした。

知里幸恵さんは、その生き方が教科書にものったアイヌ人です。若くして亡くなりましたが、その短い生涯にユーカラを日本語に翻訳し「アイヌ神謡集」を著し、またそのユーカラに魅せられた言語学者金田一京助のアイヌ語の補正をしたのです。彼女の実弟は、東大を出て言語学者になりました。
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さて、アイヌの人たちは学校教育も私たちと一緒でしたし、日常生活ではあまり違いを感じませんでしたが、何らかの差別を受けているらしいとは感じていました。

顔立ちが独特で、一目でアイヌ民族とわかりました。髪の毛が黒々としていて、目鼻立ちがはっきり。目は大きな二重の目で、大きくどっしりとした鼻が特徴的でした。中国系の顔立ちではなくて、むしろ沖縄の人々のような彫りの深い顔立ちなので、一目でアイヌ民族の人だとわかりました。
今は、たぶん混血が多くなっていて、純血のアイヌ民族は少なくなっていることでしょう。

もしも、ここまでお読みになって、アイヌ民族についてもう少し知りたいと思われた方は、下に載せましたサイトをぜひご覧になってください。

  近文 あの時このとき(旭川におけるアイヌ文化の歴史と現在) http://homepage1.nifty.com/kakogawa/wakaru/yukar/area/history-top.htm

☆「川村カ子トアイヌ記念館」館長川村兼一さんに聞く→この記念館は、私の通学路にありました。たぶん、無料だったと思います。学校帰りにときどき中に入って見学しました。この方のお嬢様は、大きな瞳のはっとする美人でした。  http://www.ne.jp/asahi/institute/association/bulletin/20040916/ainukinenkan.htm

☆知里幸恵さんのことhttp://homepage1.nifty.com/kakogawa/wakaru/yukar/yukie/top.htm

(このページの旭川という赤字をクリックすると、彼女のことを書いた新聞記事が見られます)

☆アイヌ 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』→こちらは、上記よりもはるかにたくさんの情報を得ることができます。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C

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2008年3月 4日 (火)

旅での出会い

私は旅が大好き。旅先で知り合った友人が、何人かいます。

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どんな人もいつ死を迎えるか分からない・・・それは明日かもしれない。


長く医療関係の仕事をしていたせいもあり、いつもそう思っている私が、一番したいことは世界中を旅することでした。
独身貴族の長かった私は、幸いにも有休をやや長めにとることができたので、ストレス解消も兼ねて・・・これまでに30回以上は世界中を旅しています。たぶん、ごく一般的な旅行ガイドブックにある旅なら80%くらいは?クリアしていることかもしれません。

旅に出るといつもbody languageを駆使して、現地の人々とできる限りのコミュニケーションをとるように心がけています。というか、せっかく一期一会の出会いをしたのに、笑顔一つ交わさずにサヨナラするのはもったいないと思うからです。

そしていつも心をこめて笑顔で「こんにちは!」の挨拶をするのです。そんな私に、ほとんどの人は笑顔で答えてくれます。また10年ほど前からは、インスタントカメラを持参していくようにしていて、慎ましく一生懸命生きている人々の写真を撮っては、ご本人にプレゼントしてあげています。そうすると、言葉を超えた心と心のつながりが瞬時に出来上がって・・・写真を手にした彼らの喜びが、まるで自分の喜びのように感じられて、幸せなひとときを共有できるのです。

物もらいをしている小さな男の子とかおばあさんに、写したばかりの写真をプレゼントした時・・・まず自分の写真を見て飛び上がらんほど驚いて、それから顔いっぱいに喜びがあふれていた姿が忘れられません。写真は、お金とはまた違った大きな価値を持っていることがあるのです。

最近では、スリランカのゴールでの出会いが忘れられません。海岸近くの壊れそうな長屋の前を通りかかった時、そこの住人と一瞬のうちに心がつながりカメラを向けたら、あわてて家族を呼びに行きました。アジアの多くの国で、カメラはまだまだお金持ちの持ち物で、貧しい庶民にとって縁のないものです。大家族写真を手にした時の、喜びにあふれたたくさんの目、目、目!

でも・・・帰国して2年後、あの大津波が起こって、このゴールの街は直撃を受けたのです。あの海辺に住んでいた家族は、どうなってしまったのでしょう?心が痛みます。


さて・・・私は、旅先で知り合った大切な友人について、ここに少し書いてみたいと思います。

最初の友人は、初めての海外旅行中で(JALパックでヨーロッパ一周15日間)スイスからベニスへの列車の中で知り合った、オーストリア人のお爺さんです。仕事をリタイヤされて悠々自適の生活を送っていらした方。言葉はほとんど通じなくても、音楽が私とお爺さんを結びつけてくれました。私は趣味で下手くそなバイオリンを弾き、お爺さんもまた趣味でチェロを弾き、仲間と室内楽を楽しんでいらっしゃるとのことでした。

私はドイツ語ができませんので、お互いにたどたどしいフランス語で、なんとかわずかに意思を伝え合いましたが、もっぱら音楽が共通語でした。

そこで、二人でモーツアルトの40番交響曲の出だしの有名な旋律を歌ったり(お爺さんがチェロのパートを口で歌って下さり)、シューベルトの野ばらを一緒に歌ったり、とても楽しい時間を過ごしました。

その後お爺さんからは「お前のことをいつも想っているよ。私は、老人大学にも通って、いろいろ勉強をしているよ。お前に会いに日本へ行きたい」といったドイツ語の手紙が来ましたが、私自身ドイツ語が全くできないので(学生時代一年間だけ教養でやっただけで、すっかり忘れた!)文通はとても大変でした。

そのうち、いつの間にかお爺さんからの手紙が途絶えてしまいました。その後手紙を出しても、全く返事が来なくなったので・・・たぶん、ご病気かそれとも亡くなられたのかもしれません。お爺さんは一人暮らしでした。

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その次に知り合った友人は、ネパール人の女性でした。

今から30年ほど前・・・ネパール国際空港で、一見して上流社会と分かるインド系の顔立ちのひと固まりの家族を見かけました。女性たちは、みな美しい高価そうなシルクのサリーを身にまとい美人揃い。子供たちも同じくサリーをまとい、未来の美女を想像させるに十分の顔立ちばかり。私は、ついついカメラのシャッターを、何度も押していたのでした。

「あの、その写真を、後でこの住所に送って下さいません?」突然、流暢な英語を話す若く美しい20代の女性が、私の眼の前に立っていたのです。そして、それが私と彼女の出会いでした。彼女のいとこがアメリカに留学するので、親戚一同揃って見送りに来ていたそうです。ネパールの上流社会では、幼いころから英語教育がされています。

彼女は、大学で化学を教えているとのことでした。大学では英語で講義をしているし、彼女にとって英語は母国語みたいなものでしたから、苦もなく長文の英語の手紙を書いて送ってくれました。もともと英作の苦手だった私は、辞書を引き引き数日かかってやっと一通の手紙を書くわけですが・・・。そんな手紙のやり取りが、年に数回ずつ続きました。

その後、彼女の結婚、出産、ご主人とのオーストラリア留学などなどがあって、年に一回年賀状を交わすだけになっていました。ヒンズー教のお正月は1月ではないのですが、こちらに一応あわせて毎年greeting cardのやり取りをしてくれていました。

10年前くらいのことです。久しぶりに、一通の手紙が届きました。

「夫が仕事で、日本へ行きます。ネパール政府の仕事で、某日本企業と感慨事業の相談があって一カ月ほど社員寮に宿泊する予定です。一度夫を訪問してあげてほしい」という彼女からの連絡でした。

「えっ、どうしよう。英語は片言しか話せないし・・・困ったわ。

それでも何とか辞書持参で、会話ができました。そして、新宿の高層街(都庁の屋上にも上り)を案内し、掘りごたつのある古い民家風の作りのレストランで和食をご馳走し、その後ご本人の希望で池袋のビッグカメラへと一緒に行きました。ご主人は、以前は大学で地質学の教授をされていたと聞きましたが、今は政府関連のお仕事をされているようでした。当時の私の語学力では、その辺のことを詳細に聞くことができませんでした。

それからまた数年して、今度はご主人からE-mail が届きました。

「妻と二人で、日本へ行きます。大きな目的は、私が神戸で開催される国際的防災講習会に参加するためですが、妻も同行します。講習会後京都観光に行きますが、その後新幹線で東京へ行きたいと思いますので、安い宿を探して頂けますか?2泊する予定です」
との事だったので、夫と相談して我が家に泊まって頂くことに決めました。

前回来日した時に「日本とネパールでは、貨幣価値が全然違う。月収が日本円にして、1万円にも満たない」と知っていたので(それでもネパールでは、高給取りのはず)物価高の日本では、宿泊費もばかにならないと思ったからです。また、たぶん日本の庶民の生活も覗いてみたいのでは?とも、思いましたので。

東京駅の新幹線出口で待ち合わせしましたが・・・出口がたくさんあって、ちょっと焦りました。でも何とか出会うことができ、それから一緒に電車を乗り継いで、駅から5分ほど歩いて我が家へ。我が家はあまり広くないので、私たちの寝室を二人に使っていただいて、私たち夫婦は狭い和室でひっそりと眠りました。

お食事はどうしようかと悩みましたが、日本人の庶民の家庭料理を食べて頂くことにしました。おでんや稲荷ずしなら食べられるかしら?おこわは?お刺身は?お漬物は?お二人は敬虔なヒンズー教徒なので、牛肉とか決して食べてはいけないものもあるし、純粋のベジタリアンかもしれないので、お豆腐類を中心にすることにしたものの、ともかく準備段階でちょっと悩みました。

東京見学は、英語ガイドと和風ランチがついた外国人向きハトバスに、乗って頂くことにしました。その方が、合理的に東京のあちらこちらをじっくり見ることができるからです。
夜は、ご主人が、私のパソコンからネパールの息子さんにE-mail を打ちました。

「秋葉原でパソコンを買いたい」ということだったので、夫と二人で、ご夫婦を電気街へご案内しました。ランチタイムは、お二人の希望でなんと日本風カレーライスでした。たぶんネパールで毎日のように食べていらしたと思われるカレーライスが、恋しかったのかもしれません。

我が家に2泊後、東京にもう1泊したいということだったので、インターネットで探した「外国人を泊める格安の和風旅館(1泊朝食付 一人5千円)」まで、ご案内しました。上野駅に近いので、成田空港に行くのに便利な場所でした。ロビーには、数名の外国人旅行者がくつろいでいらっしゃいました。純日本式な床の間のあるお部屋で、畳の上にふとんを敷いて寝るようになっていますし、お風呂も日本風。旅館の周辺も、古い日本の町の味わいがある古い造りの家並みがあって・・・帰国の最後に、日本の伝統的な庶民の生活を体験して頂けたかもしれません。

それから3年が過ぎました。3日前にE-mailが、ご主人から届きました。E-mailは、いつもご主人からばかりです。
33日から15日まで,仕事で東京に行きます。JICAInternational Center に宿泊しますので、一度会いに来てください。日本に着いたら、あなたの自宅に電話します。今回は、ついでに日光と奈良と松坂に行く予定です。今回は、妻は同行しません」
たぶん、政府関連のお仕事で来日されたのでしょう。

このメールを見た私の正直な気持ちは「ああ、困ったわ。もう1年位英会話なんてしていないし・・・ちゃんとお話しできるかしら?」というものでした。

でも、私が片言の英会話しかできないことは十分ご存じだし、電子辞書を持参すれば、なんとかおしゃべりができるでしょう。久しぶりの英会話のお勉強タイムだわ。こう思うことにしました。でも・・・やはり、ドキドキ・・・。

スギ花粉のひどい時期に、スギ林の乱立している日光へ行かれるとの事なので、いちおうmailでそのことをお伝えしましたが・・・花粉症の方は大丈夫かしら?と、毎年花粉症で悩まされている私は、心配しています。


さて、私の一番年下の海外の文通相手は、エジプトで知り合ったかわいい男の子でした。
エジプトのアブシンベル神殿観光への航空機の中で、たまたま隣の席だったフランス人の当時11歳だった男の子と、神殿行きバスの中で再び出会い、写真を送ってあげたりして、それから文通をすることになりました。彼のご両親は二人とも大学教授で、あの時はフランスの大学教授たちのエジプトツアーにその子も家族として参加し、美人の叔母様(弁護士)もご一緒されていたのでした。

☆★  アブシンベル神殿  http://www.hi-ho.ne.jp/kindo/abusimbel.htm

さて、子供の書いた簡単なフランス語の手紙は、辞書を引けば何とか読むことはできましたが、フランス語で(私の能力を超えた)手紙を書くのは、本当に大変でした。
その男の子は、なかなかの勉強家で、ある日突然日本語を勉強し始め、時々日本語の混じった手紙をくれるほどになりました。彼が18歳になって、大学に入ってから「入隊することになった。香港へ派遣されそうだ」との手紙が最後になって、その後手紙が来なくなって文通も自然消滅。それと同じように、私のわずかなフランス語の語学力もどんどん低下・・・。あの少年も今では、30代後半でしょうか?

だいたいにして日本では、普通に生活している限り、あの発音の美しいフランス語を使うチャンスは、ほとんどないのです・・・。

でもそんな忘れかけた片言のフランス語でも、フランス語圏を旅した時には(モロッコやチュニジア)現地の人とのコミュニケーションに、思いのほか役に立ちました。スークでのお店の人との会話、四輪駆動車のドライバーであるトゥアレグ族(かっては砂漠の遊牧民で、今は一部定住化)の男性との気楽なおしゃべりや、サハラ砂漠の砂丘の上で貝の化石を売っていたベルベル族の少年とのやり取りなどなど・・・。そんな時、たとえ片言でも言葉を知っていたら、それにbody languageを加えることによって、現地の人々と親しく心を通い合わせるための大きな力になることを、実感しました。

☆★トゥアレグ族 http://africanbazaar.jp/newpage78.html


Picture3_2 もう一人、中国にも年下の友人がいます。彼からも、5日ほど前に突然greeting cardが届きました。3年ぶりくらいでしょうか?中国の春節のお祝いのカードでした。

彼との出会いは、15年くらい前でした。チベット旅行のために、中国の成都の国際空港で国内便に乗り換えのため時間待ちをしていた時に、偶然ビップ専用待合室で出会いました。
私たちは、便が遅れていてたまたま旅行会社のご厚意で、設備の立派なそのビップルームで休憩をさせて頂けることになったのです。彼は政府に属する建築事務所の建築士で、政府のお偉方数名と、どこかへ仕事で出かける途中だったようです。

れが、ひょんなことから彼と言葉を交わすことになり・・・片言の英語と、漢字を駆使していろいろとおしゃべりを楽しみました。たぶん・・・写真を送ることになって彼の事務所の住所を教えてもらったのでした。それが縁で、文通が続きました。彼は、当時英会話こそ片言でしたが、読み書きの能力はすばらしく、いつも長文のロマンティクな内容の手紙を書いてくれていました。私は、相変わらず、辞書片手で汗だくで手紙を書いていました。

彼はどうやらかなり優秀な青年らしく、その後天津大学の建築科の大学院へ再入学したり、学生に講義をしたりと、住む場所も変わり生活が変化して、やがて建築修行のためにヨーロッパの大学に留学したりして、ともかく一生懸命に建築の勉強を続けたようです。彼は日本の建築家の一人(当時東大建築学科の教授)に、たいそう惚れこんでいました。日本留学も希望していたらしいのですが、結局はヨーロッパに留学することになったのでした。

今は、同じ建築を志す女性と結婚して、子どもも出来て、仕事も大学から企業の建築家と変化したようです。そして、いつしか長い手紙のやり取りは、途絶えていました。
それなのに、急に2月末の今の時期に、E-mailでのgreeting cardが届くなんて!でも、うれしい!
さっそく、返事のE-mailを出しました。今の日本と中国のトラブルを、残念に思うし、とても心配している・・・とも書きました。そしてこのblogのアドレスも知らせました。

本日(32日)中国語で、私のblogにアクセスをしている人がいました。彼かも知れません。彼には「家族の写真をE-mailで送ってね!」と書いておきましたので、近いうちに美人の?奥様と子供と3人の写真が送られてくることでしょう。彼は、お洒落でなかなかハンサムな青年でしたが。もうあれから15年たっています。でっぷりと太った中年のおじさんになっていることでしょうか?


と・・・こんなふうに、旅で知り合った人と、まだ細々とお付き合いが続いています。

いまでは郵便の手紙からE-mailへと変化していますが・・・どちらにしてもbody languageが使えず、純粋に言葉だけでしかコミュニケーションができないのはつらいことです。しかも肝心の英語を十分になんて使いこなせるはずもなく・・・たんなる事柄ではなく、心を伝えることの難しさを痛感しながら、mailを書いています。
ただ、かってと違って今は、ところどころ翻訳ソフトのお世話になりながら、文章を修正していけるので、とても気楽ですし、短時間に手紙を書けるのは嬉しいことです。

さて・・・今度の日曜日あたりは、ネパールの友人に会いに、JICAの東京センターへ行くことになるでしょう。奥さまへのプレゼントを(日本的なもので軽いもの?)持って・・・。

そして・・・また、どこかの国を旅して・・・新しい友人ができるでしょうか?

 

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2007年12月 5日 (水)

天才ボノボ「カンジ」の本

言葉をもった天才ざる ボノボのカンジ君のことをブログに書いてから、何十人もの方がカンジ君のページを開いて下さっています。アクセスの数は「手話で人間を会話をするゴリラのココ」のページほど多くはありませんが、とても嬉しいことです。ともかくも類人猿好きの方がたくさんいるらしいことを知って、ちょっとわくわくしています。そしてまた、類人猿を含めて、たくさんの野生動物を守るために(もちろん、世界中の貧困や内戦で苦しむ人々を助け、守ることも含め)私なりにブログで、いろいろお話していきたいと思っています・・・(*^_^*)
Picture62blog

さて、今日図書館で、カンジ君のことを書いた本を見つけて借りてきました。カンジ君関連の絵本などもいくつかありましたが、この本ほどカンジ君について、詳細に心をこめて書かれた本は他にないでしょう。ぜひお勧めしたくて、またブログにのせることにします。

カンジ君を、生後6か月の時から育てて、言語教育をしてきた女性学者ランボー博士がカンジ君との4500日を、本にしたものです。とても感動的な本です。本を読んでいると、まるで人間の男の子「カンジ君」の成長記録(やや学術的な?)を読んでいる気さえします。皆様のお近くの図書館などにも、たぶん置いてあるでしょう。

カンジ 言葉を持った天才ザル
スー・サベージ・ランボー著

NHK
出版(監修:古市剛史 訳:加地永都子)

なお、カンジ君のことを書いたページも、よろしかったらご覧下さいね。http://sabakunoizumi-777.cocolog-nifty.com/poucesverts/2007/11/post_c5b9.html

ハンサムなカンジ君の写真と、短い記事が、2008年3月号のnational geographicに載っています。(ネットの友人から教えてもらいました)
このマガジンはなかなか素晴らしい内容が満載ですね!(^-^)

http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0803/feature01/gallery/10.shtml

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2007年11月25日 (日)

白猫ミミちゃんの旅立ち

白猫のミミちゃんが、昨日天国に旅立ちました。Picture56blog 一緒に暮らしていた両親はもちろん、私を含めたくさんの人たちの心を癒してくれて・・・今では癌の苦しみからやっと解放されて・・・永遠の眠りに就きました。でも、亡くなる少し前に、母に体をきれいにしてもらって痛み止めの薬を塗ってもらってから・・・死出の衣装となった新品の人間の赤ちゃん用のパンツを着せてもらって、母に体をやさしく撫でてもらいながら・・・いつの間にか冷たくなったそうです。

「少ししてからペット用葬儀社に連絡をして、葬儀をしてから焼き場に行って、きれいな箱に骨を入れてもらって・・・今は、かわいい骨になって家に戻ってきたの。春まで骨を家に置いておいてから、永代供養をしてもらうことにするわ。ミミがいなくなってさびしいって、お父さんと話しているの・・・」

私には母を慰める言葉がありませんでした。夫と二人、涙ぐむばかり・・・。

春になったら両親を連れて、旅行にでも行こうかしら?と思っています。両親と約18年間も一緒に暮らしてきた家族同様の猫ちゃんです。私と弟よりも長く親密に暮らしてきました。ミミちゃん!本当にありがとう!

今ブログにアップしようとしている童話(ジュンちゃんとゴリラ)は、ミミちゃんを送るのにちょうどふさわしい内容かもしれません。ミミちゃんを想いながら、カット絵代わりのデザイン画を考えることにしましょう。

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2007年11月17日 (土)

ゴリラのココと手話

類人猿大好きでーす!というか、類人猿は愛すべき隣人です!


さて・・・ゴリラのココのことをごぞんじかしら?

ココ、お話しよう」というタイトルの本を手にした時、なんてウキウキしたことでしょう。この本は、手話で人間と会話をすることのできるメスゴリラのココのことを、彼女を一緒に暮らしていたパターソン博士という美人の霊長類学者が書いた本です。
(追記:2007当時あった書評のホームページがなくなっていましたので、本の宣伝みたいになってしまいました。図書館になら置いてあるでしょうか?)

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かってTBSテレビで「わくわく動物ランド」という人気番組がありましたが、その中でこの「手話をするゴリラ:ココ」を数回取り上げたことがあります。実際に国際手話ができる女性が、テレビに主演して「ココの手話」を日本語に翻訳してくれました。


ココは、単に手話をして人間と会話するだけではなくて、とても感情の豊かなゴリラで、子猫を自分のペットとして、とてもかわいがっていました。

大きな体のゴリラのココが、床にごろんと寝ころんで子猫に「高い高い」をしてあげたりしました。その子猫が、なんと交通事故で死んでしまった時、ココは心からの悲しみを手話で表現しました。その映像を見ていて、私自身も涙が出てとまりませんでした。
このエピソードも、パターソン博士によって絵本化されています。                  下に「ココ」のホームページをコピーします。ココのことや、ゴリラのことをお知りになりたい方は、ぜひご覧くださいね。ココの画像があふれています。

  http://www.koko.org/index.php 
     (http://www.koko.org/world/pics_g1.html
              http://www.pbs.org/wnet/nature/koko/

     http://www.koko.org/world/kokoflix.php/


日本人の類人研究者京大教授山極壽一氏がわかりやすいゴリラ学の本を書いていらっしゃいます。
ゴリラ語が得意で、マウンテンゴリラの研究のために、何度もアフリカの山奥にいらした方です。じつは私のゴリラの知識のかなりもこの方からのものです。爆問学問という番組で、山極教授がゴリラについて楽しくお話しされています。
http://www.youtube.com/watch?v=OuLV8kZUeCg

追記:この記事を書いた2007年と比べて現在は、youtubeでたくさんのゴリラココの映像を見ることができます。

Gorilla3

下のホームページは上野動物園で産まれたゴリラのモモタロウの映像(シアター)です。今は、モモコ母さんといっしょに千葉動物園にいます。とてもかわいいモモタロウの姿が、音楽と語り付きでなんと28分も見られます。   http://www.tokyo-zoo.net/movie/zoo_theater/0212_01/index.html

2009年11月にモモタロウに妹コモモができました。モモコ母さんとコモモちゃんの様子がビデオでみられます。

 【続・ゴリラの「コモモ」の成長記録】────────────────

  20091114日に上野動物園で生まれたニシローランドゴリラの「コモモ」

  (メス)。すくすく育っています。母親の腕枕でなく「手枕」(?)で休ん

  だり、キャベツにかじりついたり。

   http://www.tokyo-zoo.net/movie/mov_book/1002_03/index.html

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今、マウンテンゴリラが絶滅の危機にあります。以前より、内戦などにより食料としてもゴリラが殺されました。まだ密猟もいまだ減りません。最新のニュースが届いています。

「マウンテンゴリラに新たな危機、コンゴ民主共和国」http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/environment/2294843/2220310

ローランドゴリラについての記事「ゴリラの家庭学」がみられます。
(national geographicより)
http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0802/feature03/index.shtml
 

Pictureblogc45

下はWays to Save Mountain Gorillasというタイトルの映像です。

http://www.youtube.com/watch?v=3p8GG90zWNw&feature=related

 



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2007年11月 7日 (水)

野良猫ミースケの弟分?

駅付近を根城にしている野良猫ミースケに、一週間ぶりくらいで逢いました。
夕暮れ時、いつもの駐車場の大きな柱の後ろに黒い影がちらっと見えましたが、すぐに柱の陰にきえてしまいました。「ミースケ!」と声をかけると、またちらっと黒い影が現れて、柱の陰から目だけが光って見えました。

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ミースケ!ほら、お食事を持ってきてあげたわ」と、バックから餌の入った袋を出して駐車場のヘリのコンクリートの床に出してあげると「みゃーおぅぅ・・・」と小さく啼きながら小走りにやってきたのです。
じつは私のバックの中には、常にミースケ用の餌が入っています。ミースケのために、スーパーマーケットで大袋の猫用餌を買ってきて、小分けしたものが家に置いてあるのです。

ミースケは、いろいろな人の優しさで生きています。駐車場を使っているドライバーの中にも、時々ミースケに餌をあげている人がいます。
そして面白いことに、ミースケが残した餌を当てにして生きている別の野良猫
(ミースケよりも一まわり小さな黒猫)もいるのです。その猫はミースケがいる時は、別の柱の陰などに隠れていて、なかなか姿を現しません。
でも、ひそかにミースケに寄り添ってなんとか頑張って生きているようです・・・。

私は
最近、ミースケだけじゃなくて、この黒ちゃん(と、わたしが勝手に名づけた)のことも気になっています。

さて・・・ミースケが餌の猫用ビスケットに夢中になっていると・・・柱の陰から恐る恐るちびっ子黒ちゃんも姿を現しました。ミースケを気にしながら、そっと私の方へとやってきましたので、ミースケから少し離れた場所に、音を立てないようにしてそっと餌を置いてあげました。黒ちゃんは、かわいそうなくらいおどおどしながら、ちらちらとミースケを見ながら、急いで餌を食べていました。

ミースケはそのことに気づいているのかもしれません。なぜって
2匹の場所はほんの2mほどしか離れていないのですから・・・でもミースケは知らぬふり?をして食べていました。

Picture21blog



もしかすると、
2匹はつかず離れずしながら、同じ人生街道ならぬ猫生街道を、共に生きることにしたのでしょうか?というのも、この間は黒ちゃんを見つけたミースケが、威嚇するような態度をとってその場から黒ちゃんを追い出していたからです。

野良猫ミースケは人の情けで生きていますが、私を含めてたくさんの人がミースケの素直さ、礼儀正しさ(たぶん飼い猫だったのかもしれません!引っ越しなどの理由で捨てられたのでしょうか?)その可愛らしさに、心を癒されています。

今、ミースケの姿を携帯電話のカメラで写そうと頑張っていますが、なかなかシャッターチャンスがありません。すぐ動いてしまうのです。

明日もミースケに、逢えるかなぁ・・・・?そして、黒ちゃんにも?
こんなささいなことが、人生にとってやさしい癒しの時間になるのです・・・

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2007年11月 4日 (日)

類人猿ボノボ「カンジ君」

また大好きな類人猿のお話をしますね。Picture18blog_4

類人猿ボノボの「カンジ君」のことをごぞんじかしら?彼は英語を聞きとって理解して、特製のボノボ用単語キーボードを打ち込んで返事をしたりして、人間とさまざまなコミュニケーションができます。

Meet_kanzi_lg_3

Speakingbonobo3881_2

わたしにとって類人猿の話をする時、それは動物のことというよりも、親しい人間の友人のことを話すようなほのぼのとした気持ちになります。類人猿の友人たちのすばらしさ、大切さを、なるべく多くの方に知って頂いて絶滅危惧種の彼らを、少しでも守ってあげたいと願っています。

ボノボは、はじめのうちチンパンジーの仲間とみられていて、ピグミーチンパンジーと呼ばれていましたが、彼らの生態の真実がわかるにつれ、「ボノボ」という名前がつけられました。

ボノボのことは素人の私よりも、専門家の説明に任せた方がいいでしょうか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%8E%E3%83%9C

ボノボ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ボノボのことを、10年以上前にNHKテレビで取り上げたことがあります。

NHKスペシャル「天才ザル カンジ君、驚異・類人猿の知能」 

NHKスペシャル「カンジとパンバニーシャ:天才ザルが見せた驚異の記録」

関心のある方は、NHKビデオライブラリで、上記の映像を見ることができます。



カンジ君のことが、書かれているスミソニアンマガジンの文章です。(英語の苦手な方は、yahooやniftyの翻訳サービスで、ページをそっくり日本文にしてお読みください。ややひどい翻訳文ですが、大体の意味はわかりますので・・・・)http://www.smithsonianmag.com/science-nature/10022981.html

http://www.wako.ac.jp/~itot/bonobo/bunken1a.htm

(ボノボの文献)

「カンジ君、“タマゴ”ってわかるかい?」
とインタビュアーの方。
EGG”、“EGG”、“EGG”・・・
「たくさんのタマゴをありがとう、カンジ君、見事だねえ!」
surprise?(驚いた?)”
「ホントにビックリだね!!」
カンジは、おなかや頭が痛いとか、独りにしてくれとか、
 怖いとか、説明することができるんですよ・・・と研究所のお話。

今、ボノボのホームページを覗いて下さった方はおわかりでしょうが、ボノボは食べ物を我が子のみならず、他の仲間に分配するという「思いやり」にあふれた類人猿です。また、争い事が嫌いで、仲間と平和に楽しく生きる知恵を持っています。彼らのことを知れば知るほど、彼らにひきつけられます。最近の殺伐としたニュースを見聞きするにつけ、私たち人間は、心を、愛を、やさしさを、どこかに落としてしまったのでは?とつぶやきたくなります・・Picture17blog_5
類人猿大好き(*^_^*)   

類人猿を絶滅させてはならないのです \
(^o^)

★ボノボの動画(出産~成長) 最初の動画は、出産直後の穏やかな母子の時間ですが、これが終わるとこの後の赤ちゃんの成長の記録の動画が一覧で出てきますので、ぜひそちらをご覧ください。

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